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ケニア合宿 番外編

2018年1月22日

現在、ケニアのイテンに来ているが、実はケニアに来るのは2回目だ。1回目は2007年、高校2年生の3月。世界クロスカントリー選手権がケニア・モンバサで行われた時のジュニア日本代表で来たのだ。

実はこの時が海外に行くのが初めて。初めての海外がケニアというのも滅多にないことだと思うが、本当に色々な経験をした。当時、高校生で名門西脇工業高校で競技をしていたため、しっかりとした教育・指導のもと学業・競技に励んでいた。西脇工業高校は私生活からしっかりとした教育をすることで有名で、掃除など当たり前のことを当たり前にやる。その次に競技ということを理念としており、私が競技生活の中で大きく成長できたのはこの高校時代だ。

高校時代、高校日本一の選手にまで育ててくれた先生には感謝している。(人としては自信を持って成長できたとは言えない・・・笑) しかし高校生活の中で唯一、どうすることもできなかったレースがこの世界クロスカントリー選手権だ。

世界クロスカントリー選手権の代表選考レースは、当時は2月に行われた千葉クロスカントリー選手権と福岡クロスカントリー選手権だ。この両大会で1位〜8位までポイントがあり、1位が8ポイントで8位が1ポイントである。この両大会の総ポイント数の上位6名が代表として選ばれるが、私は当時力をつけていたこともあり、両大会とも優勝し16ポイントで代表が内定した。何を言いたいかというと、クロスカントリーレースはサーフェースが芝や土でアップダウンや障害物を越えたりする競技だが、不得意というわけではないということだ。そしてこの時それなりの力を身につけレースに臨んだということだ。

レースでは、食事により日本人選手はほぼ下痢の状態となっていた。実際、私も同様の症状で、ウォーミングアップも暑くてフラフラでできない。そんな中のレースだった。結局レースは40位と悲惨なもので、ただただゴールしただけだった。常にケニア人留学生にレースで挑んでいて、そんな選手の生まれ故郷であるケニアにはどんな強い選手がいてどこまで通用するのかという好奇心があったが、一緒だったのはスタート地点だけだった。この結果は、レース以外の外的要因も含まれているが、ゴールすることを目指して走ったレースはこれ以外にない。それぐらい過酷なレースだった。ちなみにゴール後は救急病院に運ばれる選手が多数いたほどだった。

ここでモンバサの説明。ケニアの中でもイテンとモンバサは全く違う場所だとご理解いただきたい。イテンは標高2400m。モンバサは標高は50m、ほぼ平地だ。そしてモンバサは高温多湿な地域でもあり、レース時は気温37度・湿度90%を超えていた。

また、レース以外の要因としては、
・生活環境が違う
・トレーニング時に道に迷い戻ってこれなくなり、かなりの距離を走り回ってようやく辿り着いたなど思いもよらない出来事が多かった
・食事が違う
・風呂がなくプール

など、今までに経験したことのない環境下でレースの準備をする必要があった。私はそれまで強豪校で競技をしていたことで、全てがマニュアル化されており、(ウォーミングアップ・食事など)環境が違うだけでここまでパフォーマンスが変わるのかと痛感した。いつもと違うことをすると不安になったりリズムが崩れたりと、適応する能力は当時まだなかったように思う。

今となっては良い思い出だが、日本選手団皆であるコースでレース前の刺激を入れることとなり、スタート地点から各自3分間走り、戻ってくるという練習があった。その時に道を間違えて走ってしまい、皆を1時間以上待たせた時があった。その時は死ぬ気で走ってぐるぐる回ってようやく辿り着いたが、本当に死ぬかと思った。当時は普通に銃を持っているケニア人が多かったため尚更だ。もうケニアには2度と来ないと強く思った。

11年前のこのような経験から、ケニアに対しては人一倍苦手意識を持っていたのだが、こうやってまた来ることとなった。そして今回は、奇想天外なことが日々起きてはいるがそれをも楽しんでいる自分がいる。これは経験からなのか。ただ気持ちが集中しきっていないからなのか。高校時代の私なら後者だと思いがちだが、実際は物事はなるようにしかならないと腹を括る回数を多く経験してきたからだと思う。

これは余談だが、2014年9月に実業団時代2回目の海外レースである「ロックンロールハーフマラソンinフィラデルフィア」に参加した時のことだ。このレースは全日本実業団ハーフマラソンからの派遣レースとなっており、1時間1分37秒の5位(日本人3位)で、派遣が決まった。

この時はケニア以来の遠征ということで、どうなるかと思っていたが、結局現地に着いたら内臓(消化器系)が全く機能しておらず、おかゆしか食べることができなかった。練習をしてもお腹が空かず常に倦怠感のある状態だった。レースでは69分もかかるという状況だった。エージェントとして帯同した方が女子の先導者に乗っていて、18km過ぎに抜かれていった時は恥ずかしくて、車を見ることができなかったことを今でも覚えている。「海外レース」というものにトラウマがあったのかもしれない。当然海外だから、環境面は日本とガラリと変わるのだが、どんな環境下でもまずは自分の力を出すということが出来なければ、勝負すらできない。

2016年7月の独立以降は、整えてもらう環境はなく自分で環境を整える必要があったため、どんな環境でも対応できる力を身につけるため、積極的に海外レースや海外合宿を行った。そして2017年11月、ロックンロールハーフマラソンinラスベガスで、3年前のフィラデルフィア大会と同じエージェントの方にレースをお願いし、結果は満足のいくものではなかったが、2位入賞を果たし海外レースでも動揺しないという成長した姿を少しは見せられたのではないかと思う。

今回約3ヶ月のケニア合宿。1つでも2つでも上のステージへ行けるように力をつけるしかない。

ケニア合宿14日目へ続く・・・